塾長ブログ No.81 2024/5/28 御堂関白記 その2
塾長ブログ 今朝もこの20年毎日つけている日記を書いてきました。
朝、起きて前日のことを忘れずに書き留めています。
前回から3回のシリーズで書いていく平安時代の政治家、藤原道長の日記『御堂関白記』。
今日は、先ず、藤原道長について書いていきますね。
藤原道長プロフィール
誕生日:康保3年(966年)
亡くなった日:1028年1月3日
家族: 父:藤原兼家、母:藤原時姫
兄弟:道隆、道綱、道兼、道長、超子、詮子
趣味:弓・和歌・日記
1.青年時代
藤原兼家(かねいえ)の4男として京都に生まれ、15才で任官される。
今の中学3年生でもう国家公務員になりました。
その後、結婚し22才で1児のパパに。
兄たちがいたため、なかなか役職には恵まれませんでしたが、道長29才の時、京都で「はしか」が大流行!
現代では、治る病気ですが当時は非常に危険な伝染病。
兄たちがバタバタと亡くなって、幸運にも氏長者(うじのちょうじゃ)という1族の家長となり右大臣に任じられました。
2.摂政(せっしょう)
天皇を補佐する役職が「摂政」。当時は天皇は幼い子どもが多くなりましたので、この役職が必要でした。
そして、天皇の后に自分の娘を嫁がせる。⇒赤ちゃんが生まれる⇒その子が天皇になる。
そう、母の実家のお父さん、つまり天皇のおじいちゃんになります。
教科書に「外祖父(がいそふ)」と出てきましたね。このおじいちゃんとなって政治を行いました。この時道長42才。
3.晩年
藤原一族の繁栄を願ってお寺を建てました。これが法成寺。今はもうありません。
このお寺を御堂(みどう)といい、ここから道長のことを御堂関白と呼びました。
実際には、関白にはなっていないのですけれどね。
その後、長男の頼道(よりみち)に位を譲ります。
頼道が建てた宇治の別荘が後の平等院です。
次回は最終回で道長の若いころのエピソードを書いていきます。
『源氏物語』の作者紫式部や『枕草子』の作者清少納言も道長のファンだったのかも!?