塾長ブログ No.159 2026/3/10 マナーと教養、その「お里」が語ること
塾長ブログWBCの天覧試合で、陛下がご退出される際にガムを噛み、腕組みをしていた選手が物議をかもしました。
また、ある若い実業家がXで「お金を払っているのだから、店に『ごちそうさま』と言う必要はない。
むしろ店側が感謝すべきでは?」という趣旨の投稿をし、議論を呼んでいます。
こうしたニュースを見て思うのは、「お里が知れる」という言葉の重みです。
食事の作法や何気ない日常の言動ひとつで、その人がどのようなしつけを受け、どのような環境で育ってきたかが図らずも露呈してしまう。
それは決して「損得」の話ではありません。
街中で見かける「やんちゃそうな若者」たちが、ふとした瞬間に見せる教養にはハッとさせられます。
昨日もいつも行く理髪店で髪を切ってもらっていたら、ツンツン頭のやんちゃそうなお兄さんが「きれいに仕上げてもらえました。アザース!」と会計の時に一言担当のスタッフさんに言ってました。
他にもThreadsで見かけてなるほどと思えたお話二つ。
京都の和菓子屋で、ちょっとやんちゃそうなオニイチャンが「この羊羹、一棹ください。」と...。
嬉しくなってしまった。
お兄さん、君は教養のある紳士だよ。
昔、クラスのやんちゃな男の子が、集金か何かで先生に現金を渡す時に『裸ですみません』と渡した時にキュンとしました🫰🏻笑
そういうとこだぞー♡笑笑
こうした「さりげない気遣い」ができる若者を見ると、その背景にあるご家庭の温かさや、彼ら自身の歩みが透けて見えて、「いい育てられ方してもらえたな。」と思えてきます。
僕の息子も、四条寺町の繁華街で飲食のアルバイトをしていますが、外食に行くと、さりげなくテーブルを片しています。
店員さんが配膳しやすいように、相手を思うマナーをアルバイトを通して体得したのでしょう。
ま、色々とだらしない面もありますが(笑)、挨拶を含め、細かい心遣いができる点には、親として安心を覚えます。
昔からレオ、そして今の学ゼミは厳しいと言われてきました。
僕の授業では、勉強ができないことで叱ることはありません。
しかし、マナー違反には厳しく向き合います。
人が話しているのに隣とおしゃべりをする。
人前で手も隠さず大きなあくびをする。
それを「悪いこと」だとも思っていないことは、社会に出た時に致命傷になりかねません。
なぜなら、大人が本気で注意してくれるのは、せいぜい学生までだからです。
社会に出れば、無作法な振る舞いをしても誰も叱ってはくれません。
その代わり、周りの人は「さりげなく、静かに」元から離れていきます。
直接的な非難ではなく「関わらない」という形で評価が下される。
これこそが、大人になってから直面する最も恐ろしいペナルティです。
以前、市民センターで模試かセミナーを行っていた時のことです。
ロビーで騒いでいる中高生がいたので、心配になって受付の方に「すみません、うちの子たちでしょうか?」と尋ねました。
すると、受付の方は笑顔でこう仰いました。
「先生のところの生徒さんは、皆さん行儀がいいから違いますよ」
この言葉は、何よりも嬉しく、僕の宝物になりました。
勉強ができることももちろん大切、でもそれ以上に、一人の人間として「どこへ出しても恥ずかしくない」振る舞いができること。
それこそが、塾という場を通じて僕が手渡したい「一生モノの教養」なのだと再確認した出来事でした。
【高校卒業生への一言】
卒業おめでとう。
いよいよ、君たちは「正解のない世界」へと踏み出していきます。
学窓社ゼミで共に過ごした時間、僕は君たちの成績に一喜一憂するだけでなく、時にはその振る舞いや言葉遣いに厳しい声を投じてきました。
あえて口うるさく言ってきたのは、社会という場所が、無作法な人間に対して驚くほど「静かで冷酷」だからです。
これから先、君たちがマナーを欠いた行動をしても、面と向かって注意してくれる人はほとんどいなくなるでしょう。
その代わりに、周りの人々は何も言わず、ただ静かに君たちの前から去っていきます。
それは、怒られることよりもずっと寂しく、恐ろしいことです。
けれど、安心してください。
かつて市民センターの受付の方が、「先生のところの生徒さんは行儀がいい」と仰ってくれたように、君たちにはすでに、相手を敬い、場を重んじる「根っこ」が備わっています。
その一つひとつの積み重ねが、君たちの「お里」となり、君たち自身を助ける最強の武器になります。
学歴や知識はいつか古くなるかもしれませんが、身についた教養は一生、君たちを裏切りません。
どこへ出しても恥ずかしくない、自慢の教え子たちへ。
胸を張って、いってらっしゃい。